現在、0歳と2歳の子どもたちを育ている、理系研究職ワーキングマザーのえいこです。
最近「お子さんに英語を習わせませんか?」的なDMが来たり(小さいうちに「こどもちゃれんじ」を取っていた影響かも...)、ショッピングセンターでミッキーとミニーの風船と共に「子どもが小さいうちから英語を!」みたいな早期英語教育の勧誘を受けることが増えました。子どもは風船が好きだからついつい吸い寄せられてしまうんですよね。
世の中には早期英語教育に熱心な方もいらっしゃるようですが、わたしは小さいうちから英語教育をさせる必要はないと考えています。「世界のグローバリゼーションに立ち遅れている考え方」「古い考え方」と思われるかもしれません。わが家の方針として英語教育を受けさせないしっかりした理由があります。
それは、まず「『自分の国の言葉』でしっかり考える力をつけて欲しい」から。人として社会の中で生きていく大前提として、『自分の国の言葉」がきちんと喋れること、その言語を使って考えられること、この2つが大切なのではないかと思っています。「英語=外国語」を習得するのは、自分のベースとなる言語を習得してからでも遅くは無いと考えているのです。
まずは「自分の国の言葉」を喋れるようになろう!
わたしの考え方の基本は、基礎があって応用がある。基礎がしっかりしていないと、いくら応用ができても無駄、という考えを持っています。
これは言語習得に関しても同じ。自分の基礎・基盤である「母国語=日本語」をしっかり話せるようになっていないといくら英語ができても無駄なのではないかと思っています。英語を話す時は、自分の国以外の人に「何か」を伝えたくて話すんですよね?でも「何を伝えたいか」って母国語で考えるものです。
ということは、きちんと自分が考えるための言語を習得するのが先なのでは無いかと私は思います。極論を言うと「L」と「R」の発音の区別は日本人ならできなくても良いんです。だって、自分たちが喋る言語には必要がないと子どもの頃に判断して、(余計な)能力を無くすようにしているんです。
子どもの言語習得はだいたい10歳くらいで完了すると言われています。その時くらいまでに「自分の国の言葉」をしっかり話せるようになっておくことが大事。小学校・中学校・高校では基本的に日本語で授業が行われます。学ぶためにはその日本語を理解する力が必要です。それは、「英語」を学ぶことも然りです。
日本人は英語を日本語ベースで理解します。いくら英語を英語で習っても、なかなか理解が追いつけるものではありません。なにか分からないことがあっても、「なにが分からないのか?」を考えるのは日本語だからです。これは国語においても同様で、国語の文章を読んでいて「なにが分からないのか?」を英語で考える人はいませんよね?基本的に考える言語は日本人なら日本語です。
小さい時こそ、日本語(母国語)をしっかり喋れるようにして「ことば」のベース作りをしてあげるのが大事かなと思っています。
「自分の国の言葉」で考えられる人になろう!
「自分の国の言葉」がなぜ大切なのかと言ったら、考えるベースの言葉だからです。例えば、「昨日どんなことした?」と聞かれたら、「昨日は、家族とショッピングセンターで買い物をして、娘がおもちゃ売り場でずっと遊んでてロクに買い物できなかった...」と日本語で考えます。まさか、「I went to a shopping mall...」なんて英語で考えてから日本語にする人はいないと思います。このことからわかるように、私たちが何かを考える時は「自分の国の言葉(日本語)」で考えているのです。
「自分の国の言葉」を自在に使えるようになったらその言葉を使って、「自分のアタマ」で考えられる力を身につけて欲しいと思っています。「自分のアタマで考える力」はこれからの世の中に必ず必要になってくるからだと思っているからです。
簡単にまとめると、今の情報化社会において色々な情報が簡単に・膨大に手に入ってしまいます。その中で自分が必要な情報・正確な情報を適宜見極めて取捨選択していかなければなりません。その取捨選択する過程で「自分のアタマで考える力」が大事になってくるのではないかと思っています。
その「自分のアタマで考える力」をきちんと身につけるためには、考えるための言語がきちんとしていないといけません。言語能力がどんどん身について行く幼児期に母国語以外の言葉を無理やり教え込もうとするのは、その子の能力を伸ばすためにももったいないような気がします。
英語はいざとなったら誰でも喋れるようになる!
私の友人で世界一周旅行をした人がいます。その人は、高校時代英語が得意だったわけではなく、むしろ赤点ギリギリで英語のせいで進級できるかを危ぶまれていた類でした。でも、大学時代に「世界中の人と話してみたい!」と思い立って死に物狂いで英語を勉強して、世界一周旅行を成し遂げてしまいました。今や世界中に友達ができて、先日はフィリピンの友人の結婚式に招待されていました。
彼女が英語へ傾けた情熱は並大抵なものではないと思いますし、普通の人ができるような努力ではないかもしれません。「何かしたい!」という情熱があれば、人はなんでもできるんだなと感じさせるエピソードとして私の心の中に刻まれています。
江戸時代、「解体新書」を翻訳した前野良沢(まえの りょうたく)が蘭学を志したのは20歳の時。20歳から勉強し始めても、オランダ語の医学教科書を翻訳できるようになるんです。余談ですが、この「解体新書」を翻訳する過程を描いた吉村昭の『冬の鷹』という本を、高校生の時に読んで感銘を受けて好きな本の1冊になっています。
時は流れて、明治時代。今度は蘭学ではなく「これからは英語だ!」と思って、英語を勉強してアメリカへ留学し、慶應義塾大学を創設したのは福沢諭吉です。福沢諭吉が蘭学を志したのは19歳の時。英語を勉強し始めたのは24歳の時です。
前野良沢は「最新の医学を勉強するためにはオランダ語が必要だ!」、福沢諭吉は「日本が外国と渡り歩くためには、英語が必要だ!」という情熱があったからこそ猛勉強して歴史に残る仕事をしています。つまり、しっかり「自分の国の言葉」で考えられるようになっていれば、15歳過ぎてから外国語を勉強しても遅くはないということです。
とはいっても、今の時代は江戸時代や明治時代と違います。グローバリゼーションが加速しているので、全く英語を勉強しないというのはちょっと時代遅れです。高校生くらいまでには挨拶と道案内くらいは最低限できた方が良いかもしれませんね。わたしたち世代が受けてきた英語教育は、中学校から10年弱英語を勉強するのにも関わらず、挨拶もろくにできない人たちを沢山生み出してきました。日本の学校の英語教育はあまり当てにできないかもしれません。受け身で習った知識よりも、自分で能動的に身につけた知識の方が強いと思います。まぁ、それは別の話。
それでは、また!
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