どうして大学に進学するの?“大学に通う意味”を考えてみた
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2020年1月18日、19日と最後のセンター試験が行われましたね。

約55万人の受験生が試験を受けたそうです。現役生である2001年に生まれた人数は約117万人、センター試験を受けた人のうち80%が現役生ということで、現役生は44万人。2001年に生まれた人たちの約37%がセンター試験を受けていることになります。

私も十数年前、今の受験生と同じようにセンター試験を受けましたがその時は同学年の約32%だったようで、センター試験を受ける人の割合が増えているんですね。

「大学全入時代」と言われて久しくなりますが、同学年のほとんどの人たちがどこかしらの大学に行く時代になりました。私の義祖母(現在80歳くらい)は、医師になりたくて大学に行きたかったようですが、女性は大学に行く時代ではないということで大学に行くことを断念しています。

 

そんな、学歴による「女性だからー」という差別を受けることが少なくなってきている世の中ですが...ここで少し質問です。

あなたは、どうして大学に行くのですか?(もしくは、大学に行っていたのですか?)

聞かれて、答えられる人はどれくらいいるでしょう?

大学で何かやりたいことがあるからですか?親が良い大学に行けと言っていたから「なんとなく」?友達が行くから?就職に有利だから?

 

では、もう一つ質問。

もし、あなたが行きたいと思っていた大学の入試があなたが現役生の時に行われなかったら、あなたはどうしますか?

 

こんな、普段考えたこともないことを考えていた大学生がいます。それは、1960年代後半に盛んに起こった学園闘争の最中にいた大学生たちです。この当時の大学生は「大学とは?」「大学に行く意味とは?」を必死に考えて、大学、時には国家と戦っていました。

学園闘争当時、現役の大学生で「大学とは?」を必死に考えた記録を残した人がいます。それが、高野悦子さん。『二十歳の原点』という本に克明に心の動きを記録されています。

今回は、高野悦子さんの『二十歳の原点』を中心に「大学に通う意味」を少し考えてみたいと思います。

ちなみに二つ目の質問は、私の叔父が実際に体験した話です。叔父は数学が得意で、数学を勉強するために東京大学を目指していました。学園闘争が激しさを増し、叔父が大学受験をする年に東京大学は入試を行いませんでした。数学者になるためにはできるだけ早く数学を学ぶ必要があったため、叔父は東京大学受験を断念し、他の国立大学に進学して数学者になりました。

なぜ、大学に行くのか?なぜ、「その」大学に行きたいのか?を一緒に考えてみましょう。

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そもそも、大学ってどんなところだっけ?

高校時代に少し勉強ができると、当たり前のように大学進学という選択肢が提示され、受験勉強をし始める人が多いと思います。(最近はできるだけ試験というストレスを無くすために、推薦制度が充実してきているので勉強する人は少数派になりつつあるかもしれません)

ちょっと待ってください!何のために、大学に行くのですか?

大学ってどんなところなんでしょう?

日本の学校教育法にはこう記述されています。

日本において大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的としている。

学校教育法83条

これだけ書かれてもよくわかりませんが、要は社会生活していくための教養を育み、専門性の高い学問をして、学生に知識を授けて、社会で活躍できる若者を育てる場所ということだと、私は解釈しました。

もともと大学は(インド・中国・ヨーロッパでも)、官僚などの国の中枢に行く人や、専門性の高い職につく人(神職や科学者)を育てるのが目的でした。

しかし近年は大学に行って、高等教育を受ける人が非常に多くなっていて、専門性のない職に就く人も大学を卒業してるケースが増えています。「大学卒」という学歴がないと“良い会社”に入れない世の中になってきているのです。なので、専門を極めるというよりも、学歴を手に入れるために進学を決める人が多いのではないでしょうか?

このように大学が「高等な専門教育」を放棄して「大学卒」という学歴だけを学生に与えれていると揶揄したのが高野悦子さん。『二十歳の原点』のなかで「大学が資本主義国家という機械の部品を製造しているに過ぎない」と言っています。また、そんな“学問”をしていない大学に授業料を支払う必要性を感じないと、授業料を滞納したりしています。高野さんは、部品にはなりたくない、人間になりたいのだともがき、大学や国家に戦いを挑んだのです。

授業料を支払うことによって得られる学生の権利とは何か。学生であるということは一体どういうことなのか。

高野悦子『二十歳の原点』

 

(ちなみに、日本で初めて授業料を取る高等教育(私立大学の前身)を作ったのは福沢諭吉です。このことは、『福翁自伝』のなかで語られています。

【ここまでのまとめ】

大学はもともと、高等な専門教育(医学・科学・哲学など)を行う場だった

日本では、大学は高等教育ではなく“学歴”を授ける場になりつつある

高野悦子さんは40年前に大学の意義について疑問を唱えた

 

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なんで大学に行きたいのか、もう一度考えてみよう

なぜ、大学に行きたいのですか?

なぜ、大学に行くのですか?

なぜ、大学に行ったのですか?

 

親が良い大学に行けと言ったからですか?

“大卒”という学歴があれば、就職に有利だからですか?

友達が行くからなんとなく?

将来やりたいことを叶えるためですか?

 

大学に入りたての頃よくきかれたものだ。「あなたは何故大学にきたの」と。私は答えた。「なんとなく」と。

高野悦子『二十歳の原点』

 

「大学に行くこと」「学生であること」の意味をあれだけ考え抜いた高野悦子でさえ、大学に入った当初は「なんとなく」だったようです。別に大学に入るまえから大義名分を持たなければならないということではないのです。

ただ、ここで考えてみたいのは“大学に行く”と言うのが自分にとって、(夢を叶える)手段なのか?(行くこと自体が)目的なのか?です。

『二十歳の原点』を読んでいて感じたのは、高野悦子が将来なりたい像が全く想像できないということ。自分を見失っているような気がしました。

「大学に行く」ということの、目的と手段を履き違えてはいずれ(大学にいる間、もしくは社会に出てから)自分を見失ってしまうことになりかねません。(高野悦子は大学在学中に自分を見失ってしまったのかもしれません)

将来の・なりたい自分になるための“手段”として大学に行くのであればそれは良いと思います。

例えば、

将来、研究者になるために専門性の高い学問をしたい

将来、医師になって多くの人々命を助けたい

良い大学に入って、良い会社に就職して親孝行したい

などは、大学卒業以降の将来の目標・夢があって「大学に行くこと」はそれを叶えるための手段です。

逆に、

親孝行するために良い大学に入る

良い学歴を持っていると良いので、良い大学に入る

「東京大学は最高学府と言われているから行きたい」

などは「大学に行くこと」が目的になっています。これでは大学に入った後に自分を見失ってしまい、大学に入って何をするべきかがわからなくなります。すると18歳〜22歳という人生で学力と体力のバランスが取れている時期を無駄に過ごすことになってしまいます。

4年という年月を無駄に過ごさないためにも、もう一度「大学に行くこととは?」を考えてみてはいかがでしょうか?

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私はなぜ、大学に行ったのか?

最後に、自分自身のことについて振り返ってみたいと思います。

私は、高校生のときから生命科学系の研究者になりたいと思っていました。一時期は医学部に入って研究医になろうと考えていたのですが、医学部の壁の厚さにたじろいでしまい、生命科学系の学部に入ります。

自分がやりたいこと、勉強したいことを自由に勉強できる喜びを感じながら、様々な価値観に触れながら大学の4年間を過ごしました。研究の世界に進むために大学卒業後、大学院に進学しさらに勉強を続けます。

私自身、わりと目的を持って大学に入ったので大学4年間はかなり充実したものになったと思います。紆余曲折を経ながら、高校時代からの夢だった研究者として現在も仕事を続けています。

 

この記事のまとめ

「大学に行くこと」は将来の夢を叶える手段にせよ

将来の夢によっては、無理して大学に進学する必要はないのです

 

それでは、また!

 

「大学について」考えるきっかけとなった書籍はこちら

『二十歳の原点』について考えてみた記事はこちら

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